そもそも【誰ソ彼ノ淵】って何なの?深掘り考察【クルリウタ】
この記事は、ボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】の深掘り考察記事です。ネタバレを含むのでご注意ください。
この記事の目的は、考察を通して【クルリウタ】とボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】への理解を深めることです。
【誰ソ彼ノ淵】を考察する2人のPのうち「うたたねP」によって執筆されています。
【誰ソ彼ノ淵】の概要
【誰ソ彼ノ淵】は、765プロダクションのアイドル達が出演する架空のホラー映画という設定です。
2020年7月29日にCD「MILLION THE@TER CHALLENGE!!03」が発売され、収録されていたこのボイスドラマがあまりにも恐ろしすぎると大きな反響を呼びました。
イベント含む各種コミュ、SSR衣装、SSRイラスト、MV、【誰ソ彼ノ淵】本編などの情報を適宜引用しながら考察を進めていきます。
【考察していく上での前提情報】
この記事は発展的な内容を含みます。
ストーリー考察や歌詞考察の記事を先に読まれることをオススメします。
クルリウタ 誰ソ彼ノ淵 ストーリー考察(オル) - 眠る蟻の考察
【誰ソ彼ノ淵】【クルリウタ】歌詞考察【前編】 - 眠る蟻の考察
【誰ソ彼ノ淵】【クルリウタ】歌詞考察【後編】 - 眠る蟻の考察
それでは、この悲劇と狂気に彩られた物語を、一緒に読み解いていきましょう。
【誰ソ彼ノ淵】って何?~言葉の成り立ちから~
はじめに、この聞きなれない言葉を分解して考えてみましょう。
まずは【誰ソ彼ノ淵】の『誰ソ彼』から。
『誰ソ彼』は「たそがれ(たそかれ)」と読みます。日が暮れて薄暗くなると、相手の顔も見えず誰だか分からなくなりますよね。その時に、「あなたは誰ですか(誰そ…誰ですか)(彼…あなたは)」と問いかける言葉です。
「誰そ彼」というこの呼び方は、江戸時代くらいまで使われていたそうです。それから、夕闇迫る時間帯を「黄昏時(たそがれどき)」と呼ぶようになりました。
当時の人々は、夜の訪れを大層恐れていました。夜になると「魑魅魍魎が現れる」、「不吉な事が起こる」と考えていたからです。
なので、日が暮れて暗くなると「誰そ彼」と呼び掛けて、互いに誰なのか確認しあっていたんだそうです。
幽霊や妖怪などの概念が、現在よりも人間の近くにあった時代ならではですね。
「黄昏時」と同じく夕暮れの薄暗い時間帯を示す言葉に「逢魔が時(おうまがとき)」という言葉もあります(大禍時とも)。文字通り「魔」に「逢う」時間という意味で、いかに当時の人々が夜の訪れを恐れていたのかがよく分かりますね。【クルリウタ】と同じくホラー系楽曲である【赤い世界が消える頃】にも「逢魔が時」というフレーズが歌詞に含まれています。
次に、【誰ソ彼ノ淵】の『淵』について。
『淵』という漢字は、「川などの底が一段と深まったよどみ」を表す言葉です。ここから、「非常に奥深いさま」や「底知れぬほどの深み」を表現する際に使われます。
転じて、「なかなかぬけ出すことのできない苦境」を表す言葉(絶望の淵など)としても使われるようになりました。
果てしない深みを意味する「深淵」という言葉は、英語で「地獄」や「混沌」を意味する「Abyss」の訳語としても使われます。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
簡単にまとめてみましょう。
「誰そ彼」とは、「あなたは誰ですか」と問いかける言葉です。
「黄昏」とは、相手の顔が判別できないほどの薄暗い夕暮れ時を指す言葉です。
「淵」は、「底知れないほどの深み」を表す言葉です。そこから「なかなか抜け出すことのできない苦境」や「地獄」などネガティブな意味を含む言葉として使われるようになりました。
以上を元に、【誰ソ彼ノ淵】を言葉の側面から掘り下げてみましょう。
夜の時間は、妖怪や悪霊など不吉なものたちが活動する時間だと、昔の人々は信じていました。
『「誰そ彼」の「淵」とは、黄昏時から更に日が落ちて、「夜」=人間ならざるものの時間帯に踏み込んでしまうこと。夜になってしまうので、もうあなた(私)が誰なのか、分からなくなってしまう…』
という意味を見出すことができますね。
陽が沈むこと、すなわち、「黄昏時」から更に落ちること。昼と夜の境界を越えて夜に沈んでいく、ということです。
この「境界を越える」という表現。私はこれが【クルリウタ】の物語で根幹を成すほど非常に重要な意味を持っていると考えています。大事なとこなので太字大文字で書いておきます
以上に述べた説明と、【クルリウタ】歌詞考察【後半】で書いた考察と関連させて考えてみたいと思います(歌詞考察後編では、北沢志保に焦点を当てて考察をしていました)。
【誰ソ彼ノ淵】【クルリウタ】歌詞考察【後編】 - 眠る蟻の考察
歌詞考察後編において、「【誰ソ彼ノ淵】は、狂気に溺れ変貌してゆく己に対して問いかける志保の唄」だと書きました。
ちょっと理解しづらいですが、狂気に呑まれ徐々に変貌してゆく志保が自分自身に対して「あなたはいったい誰なんですか」と自問自答している風に捉えてください。
狂気に呑まれてしまうことは、北沢志保が人間ではない全く別の存在になり果ててしまうことだと歌詞考察で述べました。これは自己の喪失と同義となります。
人間・北沢志保にとって、紛れもなく『絶望のどん底=淵』に堕とされるということです。
そして、「【誰ソ彼ノ淵】とは『夜に堕ちてく』ことだ」とも書きました。
「黄昏=夕暮れ」から完全に日が落ちてしまって、夜になることを「黄昏の淵(誰ソ彼ノ淵)に落ちる」と表現しているわけです。
厳密に書くと、「【誰ソ彼ノ淵】に堕ちてく」となりますね。
『夜に堕ちてく』は【クルリウタ】の一番最後に入れられている歌詞です。つまり曲のいちばん最後に【誰ソ彼ノ淵】のタイトルをズバッと入れ込んでくるという、実にお見事スーパー大絶賛スタンディングオベーションな伏線回収がされていたわけです。オタクってこういうの大好きだよね。好き好き大好きだよ。
まさにこの部分が【誰ソ彼ノ淵】の根幹なんですね。
これがよく表れているのが、二階堂千鶴と北沢志保のSSRイラストです(歌詞考察 後編より)
千鶴は【誰ソ彼ノ淵】時点で既に堕ちてしまっているので、覚醒前・覚醒後のどちらも夜の描写になっています。
志保は【誰ソ彼ノ淵】時点で堕ちるギリギリの段階だと言えるので、覚醒前は夕暮れ時(黄昏時)、覚醒後は堕ちる場面(夜)になっています。『夜に堕ちてく』という歌詞がハッキリと描かれていることがお分かりいただけるでしょう。
これまで投稿してきたオルPのストーリー考察や【クルリウタ】の歌詞考察を総合して考えても、1本の線で綺麗に繋がって見えるのではないでしょうか。
【まとめ】
【誰ソ彼ノ淵】とは、
①黄昏時から更に日が暮れて、夜の時間帯になること
②絶望のどん底に落ち込むこと
③狂気に呑まれ「人間ならざるもの」になり果てること
と、大きく3つの意味を見出すことが出来ますね。
これら全てが【誰ソ彼ノ淵】というたった5文字に集約されていますので、最も狂気じみているのはこのボイスドラマを作った製作陣であり、GOサインを出した運営だといえるのではないでしょうか。
重要な要素と書いた「境界を越える」ということ。
「昼と夜の境界を越えて、夜の領域に堕ちていくこと」が、「狂気に呑まれ、人間ではない存在になり果てること」の比喩として抜群に洗練された表現になっていて、最高だなあと感じました(語彙力)。
…こんな感じで、映画のタイトルにしてボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】を考察してきました。
とりあえず、ここまで見ていただいてありがとうございます。
他にも関連考察記事がありますから、そちらも是非ご覧になってくださいね。
さらなる深”淵”へ 【深掘り考察】
は、本番に参りましょう。
ここから先はオマケの深掘り考察部分です。
具体的にはこの辺を掘り下げる予定です。
・お話のモチーフって何?
・あの孤島って何?
・どうして千鶴さんは狂っちゃったの?
掘り下げられたらいいね…頑張るよ…
・お話のモチーフって何?
・あの孤島って何?
結論から言いますと、物語のモチーフとなったのは『黄泉比良坂(よもつひらさか)』のお話だと思います。
日本神話に登場する男女二柱の神さま、イザナギとイザナミで有名なお話ですね。
日本最古の歴史書と言われる古事記の一番最初に語られるのが『黄泉比良坂』です。
※似たようなお話は他にもあるんですが、ここでは黄泉比良坂に限定します。
簡潔に要点をまとめると…
・イザナミを亡くしたイザナギが黄泉の国へイザナミを連れ戻しに行きました
・イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまったので帰ることが出来ません
・イザナミは絶対に私の姿を見てはいけないと言いますが、イザナギは見てしまいました
・醜い姿となったイザナミを目にしたイザナギは逃げようとします
・おこのイザナミは後を追いましたが、逃がしてしまいました
まぁこんな感じです。この死後の世界の食べ物を食べることを「ヨモツヘグイ」といいます。お仏壇にご飯をお供えしますよね?アレです。
前回のオルPの考察では否定されていましたが、私的にはアリだと思うのでここで改めて考察してみたいと思います。
古くから、死後の世界の食べ物を食べると、死後の世界の住人になるので、現世に蘇ることが出来なくなると信じられていました。
はい。この『黄泉比良坂』のお話を念頭に置いて、ボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】の展開を思い返してみてください。
・イザナミを亡くしたイザナギが黄泉の国へイザナミを連れ戻しに行きました
→遭難した茜ちゃん一行は他の生存者を探すため古いお屋敷を訪れました
・イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまったので帰ることが出来ません
→茜ちゃん一行は屋敷で出された豪華な食事を食べました
・イザナミは絶対に私の姿を見てはいけないと言いますが、イザナギは見てしまいました
→歌織先生は鎖で厳重に閉じられていた扉の奥を覗いてしまいました
・醜い姿となったイザナミを目にしたイザナギは逃げようとします
→伊織を解体してた志保を目撃した歌織先生は逃げ出しました
・おこのイザナミは後を追いましたが、逃がしてしまいました
→追いかけてきた志保に捕まり、歌織先生とエレナが殺害され、茜ちゃんが捕らえられてしまいました
物語の大筋の展開が、結末以外ほぼ一致しますね。何故結末も一致させなかったのか…。
【追記】【重点】
お話のモチーフは【黄泉比良坂】の物語だと思うよって書いていますが、最新の別の考察によってこの説は自ら否定しています。
厳密には【誰ソ彼ノ淵】と「黄泉比良坂」はモチーフにしたものが同じである…というニュアンスに近いかなと思います。
関連性はめちゃくちゃあるけどお話のモチーフが【黄泉比良坂】というわけではなさそうだよってことです。
詳細はコチラ↓↓
【クルリウタ】と【誰ソ彼ノ淵】は【千と千尋の神隠し】だった説 - 眠る蟻の考察
もっと掘り下げてみましょう。特に黄泉の国について。
黄泉の国と言えば、なんとなく「死後の世界」「あの世」をイメージする人が多いのではないでしょうか。だいたいそんな感じなんですが、厳密には違う概念です。
黄泉とは、死後の世界や神域、幽世(かくりよ)など様々な呼び方・解釈がなされています。
前回、オルPの考察でも出てきた「常世(とこよ)の国」とも関連付けて考えられることもある概念です。「常夜」とも表現され、【海の遥か彼方にある理想郷】である、ともされています(海の底とも)。
たとえば、琉球諸島(沖縄)で古くから知られている「ニライカナイ」や、私たちの身近なところで言うと「浦島太郎」の物語も、「常世の国」のお話だろうといわれています。
さてこの「常世の国」ですが、私たちが住まう現世(うつしよ)とは色々と違う点があります。
まずは不老不死や若返りと関連付けられていること。
古くから人間は、永遠の命や若返りの奇跡を夢見てきました。日本においては、この不老不死や若返りを求めて、時の権力者が人を遣わせたとの記録が残されており、その中に「非時香果(ときじくのかのこのみ)」と「まれびと」という、不老不死をもたらすとされる重要な要素が含まれています。
詳細はオルPの舞台設定の考察記事にあるのでそちらを見てね。→
次に、時間の流れ方が現世とは違うらしいこと。
「常世」という言葉そのものに「永久」という意味が含まれています。時間の流れ方が私たちの住まう「現世」とは違っているとされています。
日本書紀に、天皇の命令で常世の国へ行った人物がいたとされていますが(この天皇も不老不死になりたかった)、行って帰って来る間に10年間も費やしたと書かれています。
めっちゃ時間かかってますね。命令を下した天皇も、彼が帰還する前に亡くなってしまいました。
そして、空間的に現世とは異なっているとされること。
「常世」は「神域」とされるものですから、私たちが暮らす「現世」とは違う世界と考えられます。
世界と世界の間には、「境界」が存在します。
多くの場合、「場の様相」が大きく変わる場所が「境界」とされていました。
平地と草木生い茂る山の境目、海と陸の境目、河川によって隔たれた場所や、大木・巨岩の先が、現実世界と異なる神秘の世界や神域であるとされていました。
神奈備(かむなび)、神籬(ひもろぎ)、磐座(いわくら)、磐境(いわさか)など様々な形態・呼び方がありますが、いずれも人の住まう地「現世」と、神さまが住まう地「神域」を隔てるためのものです。
そこは「禁足地」とされ、一般の人間が無断で立ち入ることは禁忌とされました。
分かりやすい例えでいうなら、千と千尋の神隠しとか。
千尋たちが「境界を越えて」不思議な世界に迷い込んだ序盤の展開が分かりやすいかもです。「石像いっぱいの山道を越えて」「トンネルを越えて」「場の様相が様変わりして」「川を越えて」「夜になって」、そこの食べ物を食べないと消えてしまう…
日本書紀の記述の中でも、”「常世の国」は「絶域(はるかなるくに)」にあり、多くの波を渡って、「弱水」という特殊なエリアを越えた先にある、「神仙」の「かくれたるくに」である”とされ、「普通の人間がやすやす行ける場所じゃない」とされています。
この「弱水」といわれる空間が現世と「常世の国」とを隔てる「境界」であり、人を寄せ付けぬ為の「結界」であるとされているんですね。
そして上記した「行き帰りに10年かかる」話とも関連して「もしかしたら流れる時間も違うかもしれない…」と書かれています。
現代においても神域の存在を知ることができます。
例えば、分かりやすいのは神社の鳥居とか。「ここから先は神さまがいらっしゃる神域です」という印ですね。境界を示しているものです。
あとはしめ縄でしょうか。神社などにある大岩や大木に、立派なしめ縄が巻かれているのを見たことはありませんか?あれも、岩や大木を神様が宿る御神体として、神域を隔てる結界の意味を持っています。
【誰ソ彼ノ淵】に立ち返って考えてみます。
遥かな海の向こうにある「常世の国」。通常では行くことの出来ない「神域」とされ、「現世」との間には「時間的」「空間的」断絶があるとされています。
物語の舞台となった孤島も、「常世の国」と言えるのではないか?と考えています。
・孤島は周囲を海という「結界」で囲まれている
・通常の手段では到達出来ない
・普通だと説明がつかない40年という時間と伊織の年齢
・島には不老不死と強い関連性がある諸々が存在している
詳細はオルPの舞台設定考察をドウゾ。
「通常の手段では到達出来ない」というのは、もしあの孤島が「常世の国」でもなんでも無く普通の孤島だったのなら、とっくに捜索隊があの島にやってきて、生存者が流れ着いていないか捜索するだろうからです。そもそも自治体が島の存在を認知しているのかさえ危うい
エピローグのラジオでは浜辺に打ち上げられた複数の遺体を発見したと報じているので、周囲の島へは既に捜索の手が伸びているはずなのです。しかし、茜ちゃんたちが流れ着いた、あの女主人が支配する島には、救助が全く届いていない。もし救助隊が来れば屋敷に住んでいる千鶴たちの元へも情報を求めてくるハズですからね。
なのであの島自体、通常の手段では行くどころか知覚することも出来ない「結界」に囲まれているのではないか。
つまり、あの孤島そのものが特殊な場である、「異界」「神域」と言われる「常世」の世界なのではないかと考えられるわけです。
なので、
・あの孤島って何?→常世の国だと思うよ
・お話のモチーフって何?→「黄泉比良坂」だと思うよ
と主張することができるわけです。
お話のモチーフは黄泉比良坂じゃないよ!
【誰ソ彼ノ淵】と孤島、「黄泉比良坂」と常世の国が、たいへん高い類似性をもって関連付けられることがお分かり頂けると思います。
ちなみに『黄泉比良坂』の比良って、崖のことらしいですよ。『あの世へ続く崖のような坂』だなんて、いやぁ誰ソ彼ノ淵とか夜に堕ちてくとかって言葉と非常に相性がいいですよね!
「えっでも『黄泉比良坂』が話のモチーフなら、ストーリー考察で『クトゥルフ神話TRPGが元になってる』って言ってたのと矛盾してんじゃないの?」
【誰ソ彼ノ淵】はクトゥルフ神話TRPGが元になっている可能性は、非常に高いと思います。
しかし同時に『黄泉比良坂』の伝説を元にしているというのも矛盾はしていないと思うんですよ。むしろこの両者は意図的にモチーフに選ばれたと思っています。
クトゥルフをはじめとして、ホラーに分類される作品群には、「お約束・テンプレ」と呼ばれる一定のルール、様式美があります。例えば「1人で行動する奴は死ぬ」とか「入ってはいけない場所に入ると呪われる」とか。
【誰ソ彼ノ淵】もその例にもれず、お約束通りの展開、様式美があります。
・冒頭でクローズドサークルの中に迷い込む
・その中でおぞましい何者かと遭遇し、犠牲者が出る
・その場から逃げようとする(が、逃げられない)
クローズドサークルって?
→山奥の洋館とか雪山のコテージとか、外界との接続が遮断された場のことです。ホラーやサスペンスはこのクローズドサークルを舞台に描かれるのが常道です。
【誰ソ彼ノ淵】も周囲を海に囲まれた孤島なので、クローズドサークルといえます。
『黄泉比良坂』の伝説もテンプレに合っていますね(黄泉の国へ降りたのはイザナギくん1人だけなので誰も死にようがないのでそこはスルー)。
そしてクトゥルフ神話TRPGにおいても…まぁ私は詳しくないのでオルP曰くですが、「テンプレ」に沿った展開なんだそうです。
これは完全に私の予想で考察とかそういうのじゃ全く無いんですが、
【誰ソ彼ノ淵】は、『黄泉比良坂』の伝説をベースに作成されたクトゥルフ神話TRPGセッションを、実際にプレイして作られたストーリーだと考えています。
TRPGセッションを作るにしても、ベースとなるシナリオが必要です。
そこで、製作陣の中でホラーのテンプレに親和性の高い『黄泉比良坂』の話が持ち出されて、エルスウェアさんお得意のクトゥルフ神話TRPGと関連性を持たせた独自のTRPGシナリオが組まれたのではないかなと思います。思うだけです。
以上、妄想ここまで。まぁ無くはないなって話でしょう?
さらにもうひとつ、深掘りしてみたいと思ってることがあるんです。
「常世の国」の説明で「まれびと」って単語を出したじゃないですか。私これすごく重要な要素だと思ってるんです。
オルPの舞台設定考察のページからそのまま引用しますね。
”「まれびと」とは日本の民間信仰の一種で、端的に言えば「外から禍福をもたらすもの」のことです。
折口はこれを沖縄の祭事と関連付け、「まれびと」とは「海の彼方からやってくる神」であると結論しました。
その後に続く民俗学及び人類文化学研究では「まれびと」とは「異邦人」「他の集落からの流れ者」「山人」あるいは「障がい者」などもこの区分に含まれたのではないかとも言われています。
いずれにせよ、「まれびと」は「コミュニティ外の存在」であるというのは確かなようです。”
「折口」とは民俗学者折口信夫氏のことで、民間伝承を広くリサーチしてまとめた、民俗学の権威です。「常世の国」「まれびと」など多くの概念を生み出した人です。
「まれびと」とは、
・「外からやってくる」
・「禍福(災いや福)をもたらす」
・「コミュニティ内の人間は彼らをもてなす」
・「異邦人などコミュニティ外から訪れる存在」
・「かつては神とされた」
…ということになります。
分かりやすく例えるなら異世界転生なろう小説です。
ある日突然、謎の人物が異世界からおったまげチート能力を引っ提げてやってきた!
…まぁだいぶ語弊はありますが。要はそういうことです。
上の方で私が言った「境界を越える」ということと、この「まれびと」という概念が深く結び付きあっていることがお分かりいただけると思います。
ここでもう一度【誰ソ彼ノ淵】に立ち戻って考えてみましょう。
「まれびと」は、海のかなたから「境界を越えて」やってくる禍福をもたらす来訪者のことを表す言葉です。
【誰ソ彼ノ淵】にも『海のかなたから「境界を越えて」やってきて、福(不老不死)をもたらす来訪者』が描かれています。
そうです、茜ちゃん一行のことですね。貴重な最高の食糧を届けてくれて…
ただ【誰ソ彼ノ淵】の作中に描かれる「まれびと」、つまり「領域外からの来訪者」は、茜ちゃん一行だけではありません。かつての二階堂千鶴と北沢志保もです。そして水瀬伊織とオレンジのガーベラも。
順を追って、2人のSSRカードのアナザー衣装を絡めて考察しましょう。
ここで重要なのはノーマル衣装ではなく、アナザー衣装なんです。何故かって?
それが2人の過去の姿だからです。
とてもかわいらしい衣装ですよね。
2人の衣装はそれぞれ、「国外文化の大流入」がモチーフとなってる
と考えられます。
えっ?なんて?
2人のSSR衣装にはそれぞれ女主人とメイドというテーマがありますが、裏のテーマとして「外国文化の大流入」が存在するんじゃないかと予想しています。
二階堂千鶴は奈良時代。日本が大陸へ使節を遣わし、文化や技術などを積極的に取り入れていた時代です。その時代をモチーフとして、アナザー衣装に特徴的なデザイン(中華風)が取り入れられています。
北沢志保は文明開化、つまり明治時代です。西洋の進んだ技術や文化を積極的に受け入れ、日本全体で近代化を一挙に推し進めようとした時代。その特徴が衣装に取り入れられています。まさにメイド(女中)の文化が流入してきた時代です。
それぞれ順番に見てみましょう。
【二階堂千鶴】
館の女主人・二階堂千鶴のSSR衣装は、黒と青を基調とした蝶モチーフとなっています。
アナザー衣装は趣をがらりと変えて、大陸風…もっと言えば中華風なイメージの衣装となっています。
ノーマル衣装にはなかった中国原産の花・牡丹が大胆にあしらわれ、スカート柄に蝶の翅は無く美しい緑色に、黒かったタイツは純白のガーターになっています。美しいですね。
重要なポイントは、全身に見られる蝶の装飾です。腕、右目、衣装、冠など、至る所に蝶がデザインされた装飾を見つけることができます。
今回スカートは別として考えようと思います。ノーマル衣装の蝶の翅のデザインは、人間ならざるものへと変貌を遂げたシンボルですので。
千鶴が狂い変貌する前の姿ですから、アナザー衣装のスカートでは翅の模様が無くなっているでしょう。人間の状態であるから、蝶の幼虫→緑色の衣装、と考えられますね。
千鶴のアナザー衣装の大陸風のデザインと、ふんだんに使われた蝶の装飾は、意図的に盛り込まれたものと考えられます。
歌詞考察の前編で「平安時代以前の日本では、蝶は不吉で恐ろしい存在だった」と書きました。
一方、中国(当時は唐国ですね)においては、蝶は吉祥のシンボルとして広く使用されていました。
現在の日本に息づく「蝶を愛でる」という文化は、中国から流入してきたものです。
当時の日本では衣類や装飾に蝶のデザインを用いるなんて不気味で不吉な事ですからあり得ないんです。だから千鶴のアナザー衣装は、国外から伝来した文化そのものの流入をモチーフにしていると仮説を立てられるのです。その象徴として蝶を愛でる文化や牡丹の花があると考えると、納得がいくのではないでしょうか。
よって、アナザー衣装…過去の千鶴の姿に「領域外からの来訪者」の属性が存在することが分かると思います。
中国大陸から日本へ、「蝶を愛でる」という文化が流入してきたことと関連を持たせてあるのです。
アナザー衣装=千鶴の過去の姿が、「娘の療養の為にあの島に来訪した当時の千鶴」と「まれびと」の属性を繋ぎ合わせる要素として織り込んであると考えられるわけです。
【北沢志保】
メイド・北沢志保のSSR衣装はメイド服を非常に意識したものになっています。
しかし完全な西洋のメイド服かというとそうではなく、袖や袴などに見られるように和服の要素も含まれており、和洋折衷な衣装となっています。「文化の流入」にスポットを当てた非常に親和性のある衣装だといえます。
アナザー衣装は緑や橙、黄色を基調とした明るく可愛らしい衣装になっています。
こちらは千鶴とは違い、蝶の翅モチーフが存在しています。
デザイン上の問題を省いて考えるなら、島に渡ってきて暫く経った後…つまり、千鶴の元で働きはじめ、少しずつ異変の兆候が出始めている状態と考えられます。
まだまだ正常な状態です。翅の色合いも全然違いますし。
アナザー衣装は、より和風っぽさを前面に出しています。メイドというよりも女給の服といった方がより正確でしょうか。
まさに文明開化が始まり、西洋文化が盛んに取り入れられた時代。カフェやサロンが国内に普及しはじめ、袴にエプロン姿の女給仕が登場しはじめた時代をモチーフとするならば、まさにピッタリな衣装設定になっているのです。
「女給」というとレストランのウエイトレス的なものをイメージしがちですが、この時代では接待業というイメージが強かったようです。キャバクラみたいな?
夜の街で働く女性を「夜の蝶」と比喩表現するのも、女給が付けるエプロンの後ろ帯が蝶のように見えることから来ているくらいですから。夜の蝶ってまんまですやんね。
志保のアナザー衣装は、千鶴のアナザー衣装と同様、植物柄が強調されたものになっています。トウワタですね。詳細は歌詞考察後編へどうぞ!
志保のモチーフとなった「オオカバマダラ」そのものが「迷い蝶」として有名な種ですので、「領域外からの来訪者」として十分成り立つだけの根拠は十分持ち合わせていると考えられます。
これに加えて、明治時代の文明開化、西洋文化の流入に「まれびと」のモチーフを重ねて、志保のSSR衣装にその意味が込められているのだと思います。
【まとめ】
二階堂千鶴のアナザー衣装は奈良時代がモチーフ。遣唐使を大陸へ派遣し、さまざまな文化や技術がおおいに流入してきた時代です。
北沢志保は文明開化、つまり明治時代です。西洋の進んだ技術や文化を積極的に受け入れ、日本全体で近代化を一挙に推し進めようとした時代です。
両者とも、国外文化が日本国内へ「境界を越えて」大挙流入してきた時代がアナザー衣装に関連付けて描かれています。
物語全体を通して「境界を越える」という概念が表に裏に、丹念に練り込まれてることがお分かりいただけると思います。
駆け足ではありましたが、【誰ソ彼ノ淵】と「常世の国」「まれびと」の関連性を、千鶴と志保のSSRアナザー衣装から掘り下げてみました。
また考察記事の目標として「【クルリウタ】とボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】への理解を深める」と書いていましたが、深めて頂けましたか?
純粋にサスペンスホラーとして完成度が高く、ホラーが苦手な人などには受け入れがたい作品であることはしょうがないとは思います(私もホラーは苦手です)。しかし何も分からないままではなく、物語の謎や意味を考えたりするキッカケになれば、1ファンとして1プロデューサーとしてたいへん嬉しく思います。
関連する他の考察も是非見てみてくださいね!
※当考察はあくまで、いちプロデューサー(2人だが)の個人的な見解に過ぎません。
これが正解でもないし、言ってしまえば単なる想像、妄想です。
「こういう考え方もあるのか~」程度に留めておきましょうね。