※この記事は発展的な考察の内容を含みます。他の記事を先にお読みいただくことをオススメします。
はじめに
この記事は、【クルリウタ】とボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】が、スタジオジブリのアニメ映画【千と千尋の神隠し】をモチーフとした作品である、という仮説を立て、検証を試みる記事です。
考察を通じて【クルリウタ】と【誰ソ彼ノ淵】へのより深い理解を促すことを目的としています。
【誰ソ彼ノ淵】とは、2020年7月29日に発売されたCD「MILLION THE@TER CHALLENGE!!03 クルリウタ」に収録されたボイスドラマです。アイドルマスターシリーズのドラマCDとは信じられないほどのショッキングな内容が大きな話題となりました。
【千と千尋の神隠し】とは、宮崎駿監督が総指揮を執り、スタジオジブリが製作した2001年公開の長編アニメ映画です。国内外から非常に高く評価されている、日本を代表する作品です。
【クルリウタ】と【誰ソ彼ノ淵】が【千と千尋の神隠し】をモチーフとして作られた物語だとするならば、これらを比較・分析することで、より理解を深められるはずです。
筆者うたたねPと共著者オルPは、過去の考察で取り上げた「黄泉比良坂」の伝説や「常世の国」も含めて、「民俗学的な要素」がこの作品の随所に含まれていると考えていました。ただ、それらの要素と【誰ソ彼ノ淵】とが、うまく線で結びつけられないもどかしさを感じていました。説明をしようにも、どうしても唐突な感じが否めないのです。
そのミッシングリンクを【千と千尋の神隠し】が埋めてくれるかもしれないのです。つまり、過去の考察で書いていたような
『民俗学的な要素』が【誰ソ彼ノ淵】のモチーフになっている
のではなく、
《『民俗学的な要素』が多く含まれている作品【千と千尋の神隠し】》が【誰ソ彼ノ淵】のモチーフになっている
だから【誰ソ彼ノ淵】の中に民俗学的な要素を多く見出せたのではないか。と考えたのです。
過去の考察をご覧になって「どうしていきなり民俗学?」という疑問を持たれた方もいらっしゃると思います。今回の考察記事で納得して頂けるかもしれませんね。がんばります。
前置きが長くなってしまいました。共にこの狂気と魅力に満ち満ちた物語を、今一度深く深く掘り下げていきましょう。当然のようにネタバレを含みます、お気を付けください
さいしょに
先に結論を言うと、【誰ソ彼ノ淵】は【千と千尋の神隠し】を基盤にした上で、全く真逆の展開となるようにストーリーを再構成して作られた作品です。そのため、類似点がが数多く存在しています。
読み解くキーワードは、《欲望》です。
- よくぼう ほしいと思う心。不足を満たそうと強く求める気持ち。「―を抱く」「―を満たす」 -広辞苑
食欲や睡眠欲、性欲など基本的・生理的な欲求から、愛したい、認められたい、傍に居たい、独り占めしたいといった社会的欲求や承認欲求など、その形は実に様々です。
私たちはこれらの欲求をコントロールしながら生きています。空腹になったら食べ物を食べて食欲を満たしたり、誰かに認めてもらいたくて勉強や仕事を頑張ったり。
しかし欲望のコントロールが出来なくなると、犯罪を犯すなど倫理や社会規範を逸脱した行動をしてしまいますね。「欲望が人を狂わせる」とはよく聞く言葉です。
【誰ソ彼ノ淵】も【千と千尋の神隠し】も、この《欲望》が作品のテーマになっています。【クルリウタ】では歌詞の中にも「欲望」ってワードが登場しますしね。
まずはそれらも含めて、ストーリー構成の面から見ていきたいと思います。
はじまり
【千と千尋の神隠し】
- 主人公の萩野千尋とその両親が、遠い町から車で引っ越してくる。
- 道を間違えてしまい、山道のトンネルを通って不思議な世界へ迷い込んでしまう。
- 辿り着いた無人の不思議な街を抜けた先、大きくて立派な屋敷の正面で、ハクという少年に出会う。
- 急速に日が傾き、夕暮れ…「黄昏時」になる。
- ハクは千尋を見るとすぐに戻れと問答無用で帰らせた。
【誰ソ彼ノ淵】
- 船に乗った野々原茜らクラスの一行が、自然学校へ向かう。
- 突然の嵐に見舞われて船が遭難してしまい、茜ちゃんとクラスメイトの島原エレナ、担任教師の桜守歌織先生、教育実習生の秋月律子先生の4人は、謎の島に流れ着く。
- 茜ちゃん一行が助けを求めて島の中を探索するうちに、森を抜けた先の大きなお屋敷の庭先で、メイドの志保と出会う。
- 時刻は夕暮れ、「黄昏時」になる時間帯。
- 茜ちゃん一行から話を聞いた志保は、屋敷の主人に紹介するため一行を屋敷の中へ招き入れた。
・・・ほらね?
【誰ソ彼ノ淵】も【千と千尋の神隠し】も、序盤がほぼ同じ展開で始まっていることがお分かりいただけると思います。
①見知らぬ土地に迷い込み
②大きな屋敷の前で、女主人に仕える人物と
③黄昏時に出会う
二つの物語の導入部分をバッチリそのまま重ね合わせることが出来るんです。すごいですね。
ハクは逃げられなかった千尋を救うべく、やむを得ず屋敷の主人である湯婆婆の元へと千尋を向かわせることになります。
対する志保は、茜ちゃん一行の話を聞くとそのまま屋敷の女主人である二階堂千鶴の元へと案内します。
しかし志保はここで「…多いか」と、小声で呟いているんですよね。
これを「本当は見逃して助けたかったが訪問者の数が多く断念した」のか「この場で処分したかったが訪問者の数が多く断念した」のか、解釈は分かれるところです。
さて。【千と千尋の神隠し】と【誰ソ彼ノ淵】。2つの物語はここからそれぞれ異なる道筋をたどり始めます。
同じような展開の、同じような幾つかの『分岐点』で、違う選択・違う行動を選ぶことで異なる結末へと至ります。そう、まるでテーブルトークRPGのシナリオのように。
ん?TRPG?
オルP「やあ!」
【誰ソ彼ノ淵】【クルリウタ】ストーリー考察(オル) - 眠る蟻の考察
オルPの記事をまだご覧になっていない方は、お時間があるならまずそちらから見てみることをおススメします。
読みましたか?
読みましたね?
ここからは、過去の考察記事でオルPが指摘していた『クトゥルフ神話TRPG』との関連性に焦点を当てつつ見ていきましょう。
クトゥルフ神話TRPGとの関係性
オルPのストーリー考察によれば、ボイスドラマ【誰ソ彼ノ淵】は、クトゥルフ神話TRPGのシステムを利用して組み立てられているそうです。オルPの記事にめっちゃくちゃ詳細に語られているのでここでは触れませんが、TRPGプレイヤーの方ならよく分かるはずだそうです。
私はオルPと違ってTRPGは初心者なので、『目的を達成するために色々な場所を探索したり、時に戦闘をしたり、場合によっては参加者が全員死んでしまったり、行動や運次第でエンディングが分岐したりする』くらいの知識しか無いんですよね…。
え、それでじゅうぶん?
先に述べた以外にも、【千と千尋の神隠し】と【誰ソ彼ノ淵】は多くの共通点を抱えています。しかし、全く全然まるっと違っている部分があります、それが「結末(エンディング)」です。
確かに、トゥルーエンド【千と千尋の神隠し】では豚にさせられた両親は人間に戻って、食べられずに生還出来ましたけど、バッドエンド【誰ソ彼ノ淵】では、一緒に来た茜ちゃん以外のみんなは食べられちゃったもんね…。
目的を達成して全員救出大団円トゥルーエンドルートになるのが【千と千尋の神隠し】。
誰も救えず救われず、終わりのない絶望の淵に突き落とされるバッドエンドルートになるのが【誰ソ彼ノ淵】となります。
あれー!まるでTRPGみたいだ!
そうなんですよ。つまりこの【誰ソ彼ノ淵】ってボイスドラマは、
【千と千尋の神隠し】をモチーフとして、【クトゥルフ神話TRPG】の要素とシステムを組み込み、《もしもバッドエンドになっていたならば》という前提で立てられたお話である
・・・という可能性が高いわけなんです。こわいですね!
ですから、茜ちゃん一行は夜のお屋敷や島の中を探索したり、その途中で物語の分岐点がいくつか存在したりするんです。トゥルーエンドの【千と千尋の神隠し】とは違い、バッドエンドの【誰ソ彼ノ淵】は分岐点での行動・選択肢がことごとくハズレ、失敗に終わっています。詳しく見てみましょう。
島の探索(茜ちゃん、エレナ、歌織先生)
- 歌織先生の発案で、島の反対側にあるという集落まで行けないか探索する。
- 山の頂上まで辿り着くも、無線があるという山小屋へは辿り着けなかった。
- 反対側の麓に集落のようなもの(家畜小屋とも)が見える。
- 茜ちゃんはそこへ行ってみようと歌織先生を説得するも、今から集落へ向かうと屋敷へ帰るのが夜になってしまうからと、説得に失敗する。
もしここで山小屋を見つけるなり、歌織先生を説得して集落へ行くなりしていたならば…。
お嬢さんとの会話(茜ちゃん、エレナ、伊織)
- 山頂から戻ると、屋敷から出て裏手の方へ向かう伊織を見かけ、後を追う茜ちゃんとエレナ。
- 雑草が伸び放題の裏庭を進むと、たくさんの木の十字架が立てられている空間に出た。
- 突然現れた茜ちゃんとエレナに驚いた伊織は、2人と何も話さないまま走り去ってしまいます。
- お墓には、オレンジのガーベラが供えてあった。
ζ*'ヮ')ζうっうー!
もしここで、伊織と話が出来て何か重要な情報を得られていれば…。
という感じの分岐点その1とその2。
TRPG的に言えば、探索パートで得られたアイテムや情報を駆使して分岐点で物語を切り開いていく事になるのでしょうが、バッドエンドルートに至る【誰ソ彼ノ淵】では、茜ちゃん一行はものの見事に何の成果も得られませんでした。残念ながら。
そんな感じなのでこの後もうまく事が進むはずもなく…という展開が続きます。
ではトゥルーエンドに向かう【千と千尋の神隠し】ではどうでしょう?
- 湯婆婆と契約を交わした際に名前を奪われ、『千』として働くことになった千尋。眠れず布団の中で震えていた千の元に、ハクであろう人物がそっと現れ、「お父さんとお母さんに会わせてあげる」と告げる。
- ボイラー室から外階段を登ると、油屋のある孤島(あえてそう呼ぶ)から、反対岸にある建物が目に留まる。島の反対側にあるという集落、もとい家畜小屋。
- ハクの導きによって家畜小屋を訪れることに成功し、豚に姿を変えられた両親との再会を果たす。
- 家畜小屋を後にした千は、畑が広がるのどかな場所に移動。雑草が伸び放題な屋敷の裏庭とは大違い。
- ハクから衣服を返してもらう。「帰る時に要るだろう」と。
- 衣服にはお別れにもらったカードが挟まっていて「千」は自分が「千尋」という名だったことを思い出す。
- 「湯婆婆は相手の名前を奪って支配する」情報も入手。ハクも湯婆婆に名前を奪われてしまっていた。
- 元気になるようまじないをかけて作ってくれたハクのおにぎり。おいしい。これから頑張ろう。
【誰ソ彼ノ淵】の展開とは真逆に、重要なアイテムと情報をたくさんゲット出来ました。
・・・ほらね???
このように、TRPGシステムで重要な探索・分岐パートが【誰ソ彼ノ淵】と【千と千尋の神隠し】の中にまったく真逆の展開で存在することがわかりますね。
【誰ソ彼ノ淵】と【千と千尋の神隠し】がクトゥルフ神話TRPG要素でもガッチリ関連し合っていることがお分かりいただけたと思います。
あともう一つおまけに。
【誰ソ彼ノ淵】のクライマックスになるシーンがありますよね。そうそう、歌織先生を仕留めた志保が、次にエレナと茜ちゃんを追い詰めるシーンです。
そのシーン、なぜ犠牲になったのは茜ちゃんではなく、エレナだったのでしょうか?
分かりませんよね。ナゾですよね。伊織に代わる次の娘役なら、別に茜ちゃんではなくエレナでも良かったはずなのに。
このナゾも、【千と千尋の神隠し】との関連性の中から、解と思しきものを見出すことが出来るんです。
【誰ソ彼ノ淵】
律子先生が行方不明になった朝のシーン。
千鶴「もし皆さんさえ宜しければ、バカンスの続きだと思って、この島に残ってくださってもかまいませんのよ?」
館の女主人・二階堂千鶴さん、まさかの残留交渉。
注意深く聴くと、エレナと茜ちゃんの2人だけに話しかけていることが分かる。歌織先生にはそもそも尋ねていない。だって大人の歌織先生は次の娘役にはなり得ないから。
この問いかけに対して、エレナは半ばはしゃぐ様子で前向きな反応。
名指しで返答を求められた茜ちゃんは戸惑いながらも、この島はとっても魅力的と前置きをしつつ、「帰りたい」と千鶴に伝えた。
【千と千尋の神隠し】
場面は油屋の中庭。ハクが、千尋にこれからどうするべきかを伝えているシーン。湯婆婆と会って、ここで働きたいと伝えるように諭している。
ハク「嫌だとか、帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど、働きたいとだけ言うんだ。辛くても、耐えて機会を待つんだよ。そうすれば湯婆婆も手は出せない」
湯婆婆と対面した千尋は、ハクの言いつけをきちんと守り働きたいとだけ言う。
「帰りたい」とも「嫌だ」とも一言も発しない。
その後色々あって油屋で働けることになり、当面の危機を脱することができた。
【千と千尋の神隠し】で、「いやだ」とも「帰りたい」とも言わなかった千尋に手を出すことが出来ず、湯婆婆は油屋で働くことを認めざるを得ませんでした。
【誰ソ彼ノ淵】で、女主人・二階堂千鶴の誘いに対して、茜ちゃんが「帰りたいです」と言ってしまったが為に、次の娘役に選ばれてしまったのかもしれません。
…こわいですね!
【誰ソ彼ノ淵】で茜ちゃんとエレナはずっと一緒に行動しており、2人の行動には殆ど差がありません。
なのに、志保に腹部をナイフで刺されながらも命を救われてしまったのは、エレナではなく茜ちゃんでした。それはある意味、死よりも辛い絶望のどん底へと叩き落されることを意味しています。ほんの僅かな生死を分けた茜ちゃんとエレナの差。
それは、たった一言「帰りたい」という言葉を言ったか言わなかったかの差だったのではないかと。
千鶴の視点から次の娘役をどちらにするか考える際、屋敷の女主人・二階堂千鶴と対になる【千と千尋の神隠し】のキャラクター、湯婆婆に選択の理由を求めてみると、上記のような関連性を見出すことが出来るんです。
まぁ、あくまでかもしれないの話ですけどね。話の筋は通っていると思いますよ。
ここまで、クトゥルフ神話TRPGの視点から両作品を考察してきました。
一旦本題に立ち返り、民俗学的要素の視点から考察を続けたいと思います。
【千と千尋の神隠し】
冒頭、千尋たち一家が転居する予定の住宅は、大きな山を切り開いて造成された新興住宅地にあります。入口側には既に多くの住宅が立ち並んで人が住んでいるようですが、より山の奥側へと行くにつれて、まだ売り出し中の土地が広がっています。
注目する点は、「立ち枯れた巨木」と「鳥居」と、「無数の小さな祠」です。
切り開かれて宅地とされつつあるこの山は、元は神様が宿る神聖な場所であったことが描かれています。
巨木も鳥居も祠も、そして山中に立っていた石像も、ここが「神域(神様がいらっしゃる場所)」であり、「禁足地(人間が足を踏み入れてはいけない場所)」とされていたであろうことを物語っています。
この新興住宅地は人間が「神域」を侵して開発したもので、巨木に寄せるように集められた祠や朽ちた鳥居はその名残だといえます。
つまりこの場所は、現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)と呼ばれる、こちら側とあちら側の世界の境界線に非常に近い場所なのです。
この2つの世界を繋いだのが、千尋たちが通った大きな時計塔のあるトンネルだったのです。そこを通って不思議な世界へと迷い込んでしまった千尋たちは、まさに『神隠し』に遭ってしまった、といえるのです。
『古くから神や霊的な存在を信じていた人間たちは、忽然と人が行方不明になることを「神隠しに遭った」といって恐れてきました。神や鬼、霊など超常の存在による災いだと考えたのです。
この後、詳細は割愛しますが色々あって泣き叫びながら元来た道を逃げ帰ろうとする千尋。しかし来た道は水に埋まり川のようになっていて、遂に逃げることが出来なくなってしまいました。
広がる丘だったこの場所が水で満たされたことで川(或いは海)になり、民俗学における遥か海の彼方からやってくる神「まれびと」の意味付けを一層強く印象付ける効果があると考えられます。川とか海とかって、こっちとあっちを隔てる「境界」の意味があるからね。
【誰ソ彼ノ淵】
見知らぬ孤島に流れ着いた茜ちゃん一行。過去の考察ブログでも記載したように、彼女たちは遭難事故によって現実世界から異なる世界へと入り込んでしまった、と考えることが出来ます。
ここで重要な概念が先ほど少し触れた『境界を越える』というものです。
過去の考察ブログでも度々言及してきましたが、茜ちゃん一行が不思議な世界(孤島)へと迷いこんでいることの傍証として、これらの『境界を越えている』事を指摘することが可能です。
【クルリウタ】そもそも【誰ソ彼ノ淵】って何なの?深掘り考察 - 眠る蟻の考察
他にもいっぱいあるんですけど、割愛させてくださいね…!時間も無いし切りも無い…!
さて。【千と千尋の神隠し】の舞台となるのが、この立派な油屋、神様たちの温泉旅館です。贅を凝らした擬洋風建築を思わせる立派な御殿です。
宮崎駿監督は、「八百万の神様たちが疲れを癒しに来る温泉」という着想を、現実に存在する「霜月祭」という民俗祭事から得ています。詳細は是非調べてみてください!(ヴん投げ)
過去の考察記事において、【誰ソ彼ノ淵】と民俗学を、「まれびと」というキーワードと共に読み解いてきました。
Q.「まれびと」ってなーに?
A.民俗学の言葉で、海の彼方や村の外など遠い所からやってきて、「福」や「災い」をもたらすもののことだよ!「神」とも言われているよ!
詳細は過去の記事を(以下略)
【誰ソ彼ノ淵】においては、「まれびと」とは遭難事故で流れ着いてきた茜ちゃん一行の事であり、過去の二階堂千鶴やメイドの北沢志保も、「まれびと」としての性質を持っていると考察を行いました。
【千と千尋の神隠し】においては、油屋を訪れる全国の神さまたちがまさに「まれびと」の概念と一致するものです。「オクサレ神様」なんか分かりやすいですね、「禍福」の両方をもたらしていることが描かれています。
これに加えて、主人公である千尋も「まれびと」であると考えることが出来ます。
遠い所からやってきて、「福」や「災い」をもたらす存在。作中の描かれ方に、まさしくこの特徴が描かれていると思います。
オクサレ神様の世話をやり通し、油屋に莫大な利益をもたらした一方、招かれざる客『カオナシ』を迎え入れたことで、油屋は大きな損失を出す羽目にもなってしまった。
ま、それが千尋の責任とかってワケでは無いんですけどね。
色々ややこしくなってしまいました。
要はつまり、
【誰ソ彼ノ淵】に見られる民俗学的な要素は直接取り入れられたのではなく、
【千と千尋の神隠し】の設定を構成する重要な要素であるので、共にモチーフとして取り入れられる事になった、と思われる
…ということが言いたかったわけです。
ここまでを整理してみましょう。
- 【誰ソ彼ノ淵】は【千と千尋の神隠し】をモチーフとした作品。
- 【誰ソ彼ノ淵】は【千と千尋の神隠し】を、クトゥルフ神話TRPGのシステムを用いて組み立てられた、バッドエンドルートの物語である。
- 【誰ソ彼ノ淵】に含まれる多くの民俗学的な要素は、【千と千尋の神隠し】に含まれる重要設定として持ち込まれた。
↑(考察が正しければ)これだけの要素を用いてボイスドラマを作った青木朋子女史をはじめとする製作陣マジやべぇ
ということが考えられます。
いやマジでよ…何食べて育ったらこんなお話考えつくの…。
オルP「人を食ったような話だね」
《欲望》について
私は過去の考察記事において、
- 千鶴は何故狂ってしまったのか
→「呪いをかけられたから」
- 千鶴はなぜ呪われたのか
→「禁足地に足を踏み入れたから」
- 何が千鶴に呪いをかけ「狂おわせ」たのか
→「正体は分からないが、超常的な何かが千鶴に呪いをかけた」
と、見解を示しました。
詳細は該当記事をご覧ください。
【クルリウタ】とは一体何だったのか 考察【誰ソ彼ノ淵】 - 眠る蟻の考察
狂うとか狂わせるとか色々書いてますが、『欲望に「狂おわせ」る』という意味です。
救い願う 二つの瞳に 「狂おわせ」
記事の冒頭で述べた《欲望》というキーワード。これも【千と千尋の神隠し】の視点から考察していきたいと思います。
《欲望》は誰しも大なり小なり必ず持っているものです。
《欲望》があるからこそ、人は生きたいと思うし、食べたい、遊びたい、お金持ちになりたい、愛したい愛されたい、と思うものです。
しかし、《欲望》が大きくなりすぎたり、制御が効かなくなってしまったりすると、自分だけでなく周囲をも巻き込んで大変なことになってしまいます。
そう、二階堂千鶴のようにね。
歌詞考察前編で書いたように、【クルリウタ】の1番は理性と欲望に揺れる二階堂千鶴の過去を描いた物語になっています。それも、そんじょそこらの軽い欲望じゃありません。
溺愛している我が子を食べ、一つになろうとするほどの深い深い愛情(よくぼう)です。
館の女主人・二階堂千鶴と娘を巡る狂気の物語は、彼女の深い愛情に芽吹き、欲望に根差し、じわりじわりと千鶴を狂気で蝕んでいったのです。
【千と千尋の神隠し】にも、欲望に狂わされた多くの人物が登場しているんです。例えば…
まずは千尋の両親。
・誰も居ないにも関わらず「あとでお金さえ払えば良いから」と、山のように盛られた豪華な料理を勝手に食べ始めてしまう。
・千尋の呼びかけすらも聴こえなくなるほど、我を忘れて食事に没頭する。
・貪るように料理を食らう姿は、「食欲」に狂わされている。
次は、湯婆婆。
- 豪華絢爛な油屋を支配する魔女は金銭欲が強く、常に金儲けの事ばかりを考えている。
- 手下のハクを操って双子の姉から魔女の契約印を盗んでこさせようとするほど。魔女の契約印があれば、従業員との契約を一方的に書き変えて奴隷にすることができるとか。
要は従業員にお金を払いたくない経営者の悪知恵ですね
- 儲けの為ならば従業員の命さえ重要ではない。劇中、湯婆婆がお客(カオナシ)に実力行使をしたのは「従業員を守るため」ではなく「(自分の持ち物である)油屋を守るため」。
- 一方、溺愛している息子「坊」にだけはとんでもなく甘い。湯婆婆の傲岸不遜な立ち振る舞いも、坊に対しては鳴りを潜める。
- 湯婆婆にとって大事なものは「お金儲け」と「坊(我が子)」だけ。
- 物質主義的な面が強いので、愛する坊がすり替わっていたりネズミになっていたりすることに全く気付けないなど、本質を見抜くことが出来ない。
豚になった両親を当てろと言われ、きちんと見抜いた千尋との対比がとてもいい味ですね。
最後に、カオナシ。
- 自力では話せず、どこから来たのか分からず、何が目的なのかも一切不明な、「己」を持たない存在。
- 橋で千尋を見かけてから、何かと彼女に執着するようになる。ストーカー予備軍。
- 優しくされたからとか気をかけてくれたからとか、キッカケは何でもいい。気になるあの子といっしょになりたい。激ヤバ変態ストーカーのそれ。
- 「寂しい…寂しい…千欲しい…千欲しい…! ホ シ ガ レ 」
他にも、いっぱい。
まぁ、歓楽街と温泉旅館なんて欲望ど真ん中のソレですからね。油屋に大浴場が無く、小さな仕切りで区切られたお風呂になっているのも「色々いかがわしいことをするからでしょうね(笑)」なんて言っちゃうし宮崎監督。
要は、油屋というあの場所はものすごく《欲望》を刺激しやすい所だということです。場の持つ空気、というか。
私はそれを「呪い」と表現します。そこに居るだけで影響を与える「場の呪い」。
【誰ソ彼ノ淵】で言うならば、あの孤島は足を踏み入れた人間を狂わせる場所なんだなって思います。それがまさに「呪い」として二階堂千鶴親子に襲い掛かった、と。詳細は過去の考さt(略)
カオナシについて
先に少し触れたように、カオナシは空虚で孤独な存在です。千に執着しはじめてからというもの、千の気を引き、千を吞み込んでひとつになりたいと思い様々な行動を起こします。
…え?千を呑み込んでひとつに?
千に執着し始めてからのカオナシの目的は、千を呑み込んでひとつになることなんです。こわいですね!ひと躰へと
え、理由は何かって?寂しかったからじゃないですかねカオナシもそう言ってたし。
寂しいという思いが狂ってしまって、優しく迎え入れてくれた(と思っている)千を欲し、ひと躰へと呑み込んでひとつになりたい。そういう《欲望》が暴走してしまったのかもしれません。
- 番台で薬湯の札を貰おうとお願いする千を見たカオナシは「千はこの札を欲しがっている」と知る。
- 千が1人になったタイミングで姿を現し、手から大量の札を出現させて千に渡そうとする。ヤバイ。
- 千が「こんなにたくさんは要らない、一つだけでいいの」と受け取りを固辞すると、意気消沈してその場ですぅ…っと消えてしまう。
…ヤバいですね。1人になったタイミングで現れたのも、もしかしたら薬湯の札で千をおびき寄せて、受け取ろうとした瞬間に丸呑みにするつもりだったのかもしれません。
カオナシはこの後、合計3人の従業員を丸呑みにしてしまっています。しかし、誰彼構わず自由に丸呑みに出来るわけではありません。
カオナシが呑み込むことが出来るのは、「欲望に呑まれたもの」だけなんです。
3名のうち1名は巻き添えですが、どれもカオナシが出した砂金の粒を手に取った瞬間…つまり《欲》を出した瞬間に呑み込まれてしまっています。
もし、千がカオナシが差し出した薬湯の札や砂金の山に手を伸ばしてしまっていたら、一息に呑み込まれてしまっていた事でしょう。
こわいですね!そしてかっこいいぞ坊ネズミ!
あ、ちなみにカオナシが砂金を出し始めたのは、油屋の従業員たちが砂金を争奪する様を見て、砂金=価値あるものと学習したからです。
描写が細かくていいですね~~~~~~~。
薬湯の札は断られてしまったけど、砂金ならば次こそは千に受けとってもらえる、そして千を呑み込んでひとつになれる…。 そう思ったのでしょうね。
私がカオナシのこのような特徴を非常に興味深いと思うのは、これまでの考察の中で度々言及してきた、千鶴が狂う原因となったであろう「呪い」と非常に似通った性質を持っていると考えられるからです。
- 欲望に負けて金を手に取ってしまった瞬間、カオナシに呑み込まれてしまった。
- 愛情を狂わされ、娘を手にかけてしまった瞬間、狂気に呑み込まれてしまった。
こわいですね…延々 繰るり 怨 狂り…
ではカオナシが「呪い」の正体なのかというと、いや多分それも違うだろうと思います。何故なら、油屋を出たカオナシは、また最初のように無害な存在に戻ったからです。カオナシを醜い化け物にしたのは、油屋というあの場所そのものだったのだと考えられます。
千も言っていますね、「あの人油屋に居るからいけないの。あそこを出た方がいいんだよ」と。
要は、油屋というあの場所はものすごく《欲望》を刺激しやすい所だということです。場の持つ空気、というか。
私はそれを「呪い」と表現します。そこに居るだけで影響を与える「場の呪い」。
【誰ソ彼ノ淵】で言うならば、あの孤島は足を踏み入れた人間を狂わせる場所なんだなって思います。それがまさに「呪い」として二階堂千鶴親子に襲い掛かった、と。
私が↑の方でこのように述べていたのはこういうことです。【千と千尋の神隠し】の油屋という場所は、訪れる者の欲望を大いに刺激するので、千の両親やカオナシのように欲望に狂わされてしまったのだろうと考えられますね。
【誰ソ彼ノ淵】で言うならば、油屋=孤島のお屋敷であり、かつて孤島にやってきた(=禁足地に足を踏み入れた)二階堂千鶴は狂気の呪いにかかり、欲望を大いに刺激され、狂わされてしまったのだろうと考えられるわけです。
ちなみに、徳間書店から刊行されている
千と千尋の神隠し―Spirited away (ロマンアルバム) | |本 | 通販 | Amazon
では、
油屋は断崖絶壁の海岸に面した孤島(あるいは人工島かも)
と言及されており、横からの全体図も載っています。
豪華なお屋敷の正面は手入れが行き届いているが、裏側は全く手入れされていない…。なるほど、孤島のお屋敷ですね…。
「呪い」そのものが【誰ソ彼ノ淵】作中に出てくるわけでも言及されるわけでもありません。
しかしながらこれまでに書き綴ってきた考察記事と、今回【千と千尋の神隠し】の中で見いだされた数々の共通点。思考を深めるにはかなりたいへん大いに興味深い部分です。ハイ。
さいごに
【誰ソ彼ノ淵】はプロローグとエピローグが繋がっており、延々 繰るりと同じ展開を繰り返していることが示唆されていました。
【千と千尋の神隠し】も同じ展開を経て物語が始まり、同じ展開を経て物語が終わっているんです。
【千と千尋の神隠し】冒頭、トンネルを抜けていくシーン
父親「足元、気を付けな」
母親「千尋、そんなにくっつかないでよ、歩きにくいわ」
【千と千尋の神隠し】終了間近、トンネルを抜けて戻って来るシーン
父親「足元、気を付けな」
母親「千尋、そんなにくっつかないでよ、歩きにくいわ」
キャプ画見せられても分かるわけないやん!なんなん!
【誰ソ彼ノ淵】のプロローグとエピローグは、【千と千尋の神隠し】のこのようなシーン展開を元に構成された、のかもしれませんね。
まとめ
【千と千尋の神隠し】と【誰ソ彼ノ淵】を、『クトゥルフ神話TRPG』と『民俗学』の側面から考察してきました。
- 【誰ソ彼ノ淵】は【千と千尋の神隠し】をモチーフとした作品。
- 【誰ソ彼ノ淵】は【千と千尋の神隠し】を、クトゥルフ神話TRPGのシステムを用いて組み立てられた、バッドエンドルートの物語である。
- 【誰ソ彼ノ淵】に含まれる多くの民俗学的な要素は、【千と千尋の神隠し】に含まれる重要設定として持ち込まれた。
今回の記事でまとめた内容の他にも、気になる点や類似点がいっぱいあるんです。でも全部を書ききることは出来ないので、ここから先は是非君が直接確かみてほしい…!
僕は疲れたよパトラッシュ…
最後に。【誰ソ彼ノ淵】とは、「黄昏時(夕暮れ時)」の淵に落ちること…つまり、『夜に堕ちてく』ことであると過去の考察記事で触れました。
そして、『夜に堕ちてく』物語の【誰ソ彼ノ淵】は、バッドエンドに終わります。
バッドエンドの物語の主題歌、【クルリウタ】。
トゥルーエンドを迎える【千と千尋の神隠し】の主題歌『いつも、何度でも』。
あれ?タイトルと歌詞似てね?
この2曲にも、まさにそれぞれの物語を象徴するような一節があるので、それをご紹介してこの考察記事を終わりにしようと思います。
※この記事は2022年8月26日に加筆・修正を行っています。